お知らせ

国際社会勉強会を開催しました(ハイブリッド開催)

国際社会勉強会 2023年12月16日(土)13:30~15:30
講師:南塚 信吾先生(元津田塾大学助教授、千葉大学・法政大学名誉教授)
演題:神川松子における内なる国際関係(ハイブリッド開催)

今回の国際社会勉強会は、歴史学者であり世界史研究所所長でいらっしゃる
南塚信吾先生を講師としてお招きし、会場とオンラインでお話をうかがいました。ご存じの方も多いでしょうが、先生は1970年から82年まで津田塾大学で教鞭を執られていました。当日は、先生にご指導いただいたかつての教え子の方々も参加され、活発な質疑応答もあり大変内容の充実した2時間の勉強会でした。
津田梅子より20年後輩で、活躍の場は違いましたが、梅子と同様、女性の社会的地位の向上のために活動した神川松子についてご講演いただきました。二人とも国際的な経験をする中で意識を高めていきましたが、梅子と異なり松子は外遊したことはなく、主に国内で知的刺激を受けて「内なる国際関係」の下で自覚を高めていきました。
先生の大学時代のご学友の西川正幹氏が西川末三・松子のお孫さんであったことからその足跡に触れられ、研究をはじめられたというエピソードも交えながら、講演では、5つの時代に沿って松子の活動を追いその時々にどのような「内なる国際関係」から刺激を受けていたのかをご講義下さいました。

(1)平民社時代(1903-05年)
1885年(明治18年)広島に生まれた神川松子は、ミッションスクールである広島女学校(現広島女学院)卒業後1903年日本女子大に入学しましたが、女子大の良妻賢母型の教育に不満を持ち青山女学院に入学しなおしました。すでに社会主義に関心を持っていた松子は、在学中に平和主義と社会主義を掲げる平民社に出入りするようになり、平民社主催の「社会主義婦人講演会」などに参加しています。またこの大学時代に松子は二葉亭四迷に師事、ロシア語やロシア文学を学んでいます。1905年に平民社が解散されるまで、松子は幸徳秋水、堺利彦らと交流しトルストイのキリスト教的非暴力主義にも影響を受けています。

(2)『世界婦人』時代(1907-08年)
松子は1907年に創刊された社会主義婦人機関紙『世界婦人』を拠点に活動を続け、同誌への松子の寄稿は、翌年の「赤旗事件」で逮捕されるまで続きました。世界各国における女性解放運動や社会主義運動の情報を多く載せていたこの機関紙で、松子は世界の各地の情報と思想を学んで自分なりの日本における女性解放の道を考えたと思われます。この『世界婦人』における期間は松子にとって国際性を身につけた重要な時期であり、特にフランス革命に強い関心を持っていたようです。松子のこの時代の論説によると、松子は女性が「奴隷的境遇」、旧来の道徳や旧習慣を脱して、人としてまた女子として「自由の権利」を獲得するには、まず「経済上の独立」が必要であると主張しています。社会の改革の前に女性の自由獲得が大事であり、「我々が此の世に生まれてきたのは何処までも自己の個性を発展せしめて、人として得た女性として自己の価値を認めむと欲するにあるのだ」と説いています。1908年の社会主義運動家が検挙された「赤旗事件」で松子も拘留されましたが、裁判で無罪となり広島に戻りました。

(3)台湾時代(1909-14年)
その後再び上京し、1909年兄の友人西川末三と結婚、台湾に渡りました。『東京朝日新聞』は「無罪出獄せし元女子大生神川松子は断然社会主義を捨てて台湾に渡り人の妻となれ居れり」と報じました。農科大学の台湾演習林の初代主任として赴任した西川末三と松子の生活は厳しいものがありましたが、一男一女をもうけました。苦手な家事が少しはできるようになった松子でしたが、食事もそこそこに書斎に入って本を読んでいたそうです。台湾でも「男女同権」が口癖でロシア文学研究に没頭していたといわれています。

(4)文筆活動期(1914-20年)
1914年に帰国した後、松子は翻訳家また文筆家として活躍しました。ロシア文学の翻訳を、特にノーベル賞を受賞したイヴァン・ブーニンの作品をノーベル賞受賞前から日本で最初に紹介しました。また、ロシア革命に強い関心を持ち、トルストイの聖書関係の著作を翻訳しました。奴隷的婦人道徳の撲滅や女性の社会的地位向上の為の発言、そして『婦人公論』や『第三帝国』に女性解放、女性の政治参加に向けての評論を多数発表しました。1916年に出版された『第三帝国』の「現代日本に於ける婦人問題として提唱すべき緊急問題は如何」というアンケートへの松子の回答から、このころの松子の考えを知ることが出来ます。「社会を震撼するものは私共の知識でもなければ主義でもありません。ただ私共の崇高な人格が偉大なる力となって體現せられた時に、其所に始めて人を動かし世を導くことが出来るのです」。興味深いことは、社会主義ではなく社会変革以前に為すべきことがあるという考えになっていることです。当時52歳であった津田梅子もまたこのアンケートに答えて、「現代婦人の緊急問題として私の考へ居り候ものは、婦人に対する種々法律の改正を急務と存候」と女性の社会的地位の向上を訴えています。1920年以降松子は再び積極的な女性運動家に戻ることはありませんでした。そしてこれ以降は夫の設立した測機舎でその能力を発揮することになります。

(5)生産協同組合・測機舎時代(1920-36年)
測機舎は、1920年に松子の夫である西川末三がそれまで働いていた玉屋商店の従業員13人と設立した日本で最初の労働者生産者協同組合でした。玉屋商店への労働者の経営参加要求が受け入れられず13人は、信望の厚かった末三を理事長として会社を立ち上げました。それは、工場労働者が自ら工場を管理経営する労務出資の生産協同組合でした。この測機舎の組織理念は松子の思想が大きく反映されていて、のちに松子は、この理念はイギリス人の労働組合運動の先駆けとなった空想社会主義者である「ロバート・オーエン」に学んだものであると述べています。また、松子は、それまでの専念してきた研究や運動をなげうって測機舎の擁立、目的貫徹の為に腐心したと語っています。会社の支援による社員の住居の建設、測機舎婦人会や測機舎婦人懇親会の設立、社員の妻による社内食堂の運営など、測機舎の中での女性地位の向上の為に様々なことを実践しました。平民社で培われた松子の思想は、測機舎の共同組合方式の経営や社員の妻たちの地位の向上に生かされたのでした。1936年、松子は、悪性リンパ腺肉腫の為51歳で亡くなりました。

松子は『世界婦人』を通じて世界中の婦人の運動を知り、またトルストイから影響を受けキリスト教、非暴力平和主義に共鳴しました。ロバート・オーエンの社会主義を日本で土着化し、労働者生産協同組合を実現しました。世界の動きから学び、具体的な女性の生き方を測機舎の中で変革することにより、女性解放という面でも世界史の土着化を試みました。
アメリカに留学し国際的な視野を培い教育者として日本の女性の地位向上に尽力した津田梅子。一方、神川松子は、日本で習得した世界の思想をもとに内なる国際関係を構築し活動家として女性の自立に貢献しました。社会主義運動に打ち込んだ学生時代、ロシア文学の研究、結婚、文筆活動、測機舎の創立運営と、それぞれの時代に松子なりの国際関係の視点から活動に力を注いだその一生から学ぶ事が多くありました。

同窓会企画部は、同窓生の楽しく学び続ける交流の場を提供しています。これからも様々な分野でご活躍の先生方を講師とお招きし、内容の濃い講演を企画してまいりますので、皆さまのご参加をお待ちしております。
※今回のご講演に関連して、『神川松子・西川末三と測機舎』(アルファーベ―タブックス2021年)に詳細な資料が掲載されています。

会員専用ページも併せてご覧ください。
https://www.tsuda-jyuku.org/member/login

講師の南塚信吾先生

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